男の娘試論(番外編):オリンパスと母性社会に関する雑感

 男の娘試論、滞ってますが、そのうち続きを書きます。

その前に、ちょいと、番外編として今年後半世の中を騒がせた一連のオリンパスの件につき、男の娘について考えていた視点で思ったことなど簡単に。

男の娘試論(2):『放浪息子』の場合河合隼雄が日本人の自我は女性原理であると『昔話と日本人の心』で論じていることを記しましたが、心理学、精神医学では日本社会が基本的に母性社会であるという理解は一般的で、河合隼雄に限らず、小此木啓吾、土井健郎などが様々な角度から論じている、ということは知っておいてよいように思います。

その中で、日本社会の特徴として、例えばここ数年で出てきた「空気を読む」「いじる・いじられる」といったような場の論理が重視される傾向が言われ、

・場の安定・維持・継続が重視される
・場の倫理に従う(空気に従うことが法や契約に優先する)・・・場に身を委ねる、的な?
・その限りにおいて場は個を守る(包み込む)

という、要するに無言で「わかってほしい」「わかる」という関係に従う限りにおいて全て受け入れるが自立・離脱を認めない、という関係が指摘されていると読むことは十分に可能と思います。

また、この文脈において宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を読む時、そうした「甘え」を、セカイ系との対比において、意図的に(ある意味で狡猾に)利用していく力を母性のディストピアと呼びながら、高橋留美子と東浩紀を取り上げながら論じていることは、非常に正しい着眼点であると思います。

この『うる星やつら』や『らんま1/2』などの母性のディストピアの世界観は主に「社会に出ない・出さない方向で機能している」世界について論じているわけですけど、オリンパスの一連の動きは、これが日本社会において、現実や企業経営において支配的であるとするとどうなるか、という好例のように思われます。
  # ところで『らんま1/2』もトランスジェンダー作品的には重要ですよね・・・

オリンパスで起きたことは、報じられているところを読む限り、代替わりしても継続された損失の先送りのスキームは、すなわち「場の空気を読み、それに従う」価値観が社内、少なくともマネジメントには共有されていたことをうかがわせるものですし、おそらく(完全な推測ですが)日本で叩き上げでマネジメントになるプロセスにおいて、オリンパスという母体に完全に「委ね」、取締役会に「従う」ことがマネジメントになる明確ではない条件であったのだろうとも思えすらします。
新米っす!色々教えて下さい!お願いしやす!的なものが取締役会にあったのではないかということですね。

また、発覚後の一連の対応は「あんたんとこもそうなんだろう?わかってくれるよね?」的な甘えが全面的に漂っているように個人的には印象付けられましたが、もしそれが大多数にとってそういう印象であったならば、母性社会的な社内倫理が外部に滲み出ていることの証左に他ならないように思います。

そしてまた、一部報道されるように、オリンパスの社内文化として相互の監視・密告が根付いていたのだとしたら、それは母性社会の厳しい方の一面が出ているという理解のされ方も十分に可能であると思います。

このように極めて母性社会の論理・倫理構造に近い行動をオリンパスが取り続けてきた件は非常に興味深いと思ったのでした。



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