男の娘試論(4): 『僕は友達が少ない』における「場」

 『僕は友達が少ない』のアニメ放送始まりましたね〜。
これは良い、などと思いつつ拝見しました。

ということで今回は『とりかへばや物語』でもう少し引っ張って、『僕は友達が少ない』の楠幸村について読んでみたいと思います。
 # 前々回に書いた『とりかへばや物語』で『僕は友達が少ない』を論じてみたい、です

楠幸村についてはメディアファクトリーの公式サイトならびにTBSのアニメ公式サイトでそれぞれどういうキャラなのかを見て頂くと、とりあえず、男子生徒である、見た目は女の子である、男らしさを求める、というような「男の娘」設定がなされていることがわかるかと思います。
 # ちなみにtwitterの公式アカはYKMR_KSNKですね。

で、これがどういう男の娘なのかということを『とりかへばや物語』とのアナロジーで読もうという話なのですが、かなり曲がった読み方のような気もしますので、一般的な解釈ではないだろうことを予め記しておきます。
ただ、ちょうど『とりかへばや物語』を読んでいて、なるほど、”男の娘”の形としてはなかなか特徴的で面白い、などと思った次第で、折角なので書いておきます。
以下、原作について、激しくネタバレ含みつつ書きますのでご注意下さい。


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ということで。

先日より延々と取り上げている『とりかへばや、男と女』において、河合隼雄は『とりかへばや物語』の構造の整理とその解釈をユング派的な手法によって行なっているわけですが、後段の第6章の「物語の構造」では、中村雄二郎を引きながら
中村はまた、「トポスには昔から『議論の隠された場所』という意味があり、その場所を知ることで発見的な議論が可能になるものと考えられていたとも述べている。このような意味合いを持つものとして「場所」ということを考えてみる。
と、『とりかへばや物語』における場所(トポス)の重要さを指摘し、京都〜宇治〜吉野、というそれぞれ舞台の切り分けを行い、その上で主要人物のそれぞれの土地の往来を図示しています。

それぞれの土地と登場人物の関係としては、ざっくりと

・京都: 日常的な場所

・宇治: 宰相中将(イケメン、リア充)が大活躍する場/右大将(男装女子→女性と転換)が隠遁する場/尚侍(女装男子→男性へと転換)と右大将が転換後に初めて出会う場

・吉野: 右大将と尚侍が転換を確定させる場/隠者の存在/

ということになるわけですが、河合隼雄はここで、夢を触媒として、「京都・宇治・吉野」を「意識・個人的無意識・普遍的無意識」となぞらえて分析し、これが前々回にも取り上げた「たましいの元型が両性具有的、中性的に存在している」こと、男性と男性性の結び付き(とその背後に存在するアニマ)、女性と女性性の結び付き(とその背後に存在するアニムス)、との類似性を指摘し、

人間が両性具有的であるとすれば、ここに示したような変換が、深層のの変換装置を通じてなされると考えると、人間の一生もなかなか面白いものである。もっともこのような深層への回帰を経ずに変換を行うと危険性は高いし、あまり面白くもないことだろう。

と述べています。この辺の分析は『とりかへばや、男と女』でも特になるほどなあと唸ったところでありました。

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さて、このような余計な情報を先に書いた上で、『僕は友達が少ない』の話なわけですが、当初は「男の娘」として登場する楠幸村の捉えられ方の変化を見るにあたり、『とりかへばや物語』『とりかへばや、男と女』参考になるなあ、「場」がどう作用しているかという視点が持てるよなあ、という感想を持つのでした。

『僕は友達が少ない』において「場」となる舞台としては、7巻まで発行されていて完結していない現段階では、おおむね

・遠夜市(学校他)
・竜宮ランド
・星奈別荘(海)
・横縞ワンダーランド
・永夜市

となるかと思います。

場所の数としては『とりかへばや物語』よりも分散しているわけですけども、この中で、竜宮ランドにおいては3巻p98-100に「白いうなじが顕わになって」「男のものとは思えない細く白い腕」「華奢な腰」といったような、そして別荘においては3巻p165に「パレオを巻いたセパレートと、前と同じ」といったような、幸村についてのそれぞれの場面での描写があり、これらは1巻p146で「清純な印象を受ける(中略)まさに美少女という表現がぴったりだった。」という描写の同等か延長線上にあるので、トポス的な意味としての場としてはあまり意味をなしていないように思われます。

そこで幸村の状況と「場」について整理しなおすと、
・遠夜(竜宮ランド、別荘): 第三者視点では男、当事者視点では男
・横縞ワンダーランド:第三者視点では男→女、当事者視点では男 (という状況で一幕)
・永夜市:第三者視点では女、当事者視点では女 (自分から夜空の「女の子らしく」「エロかわ」な服を着る程度に)

というような三段階に括り直すことができるかと思います。
このあたりの変化をさらに鮮明にしようとすると、同じく性別に関してある程度の動きがあるのは三日月夜空ということで、夜空の扱いを対比させると、もともと中性的というような書かれ方がなされる中で、

・遠夜: 美少女→中性的→夏祭りを経て髪を切ってさらに中性化
・横縞ワンダーランド:特になし
・永夜市:服を「女の子らしく」「エロかわ」と指摘されて恥ずかしがり黒いジャージに着替える

と、横縞ワンダーランドではその「場」における対照性は希薄なものの、少なくとも前後するタイミングにおいて、短髪化したり、主人公の小鷹の昔の親友のソラ(少年として見ていた)だったことがわかったりするなどで夜空が「中性化」「男性化」していることが、幸村の「女性化」と対になっているであろうことが指摘できるかと思います。

それが永夜においては「場」「時間」ともに一致する中での転換とも言え、極めて対照的になってきている、といえそうに思います。

 # いやー、それにしても、そもそも幸村が夜空の服を着る、というのも、平安時代における、後朝の別れという習慣を思い起こすと、これはこれでなかなか乙な設定だなあ、百合ktkr!ハァハァ!みたいな感じもしないでもないですねw

 # 大変な余談ですが、さらにあらぬ方向に深読みするなら、竜宮ランド、というネーミングはこれはこれでまた乙な設定だなあ、河合隼雄「昔話と日本人の心」マジ名著!などと思いますww


と、発生する事象とそれを引き起こす「場」の構造に着目してみると、それなりに『とりかへばや物語』と『僕は友達が少ない』に類似性が指摘できそうです。
もちろん、『とりかへばや物語』では、右大将が女性と露見したり尚侍が男性に戻るのは京都であって宇治ではない、といったような点を思うと、完全に呼応しているわけではないのですが。

その上で、『僕は友達が少ない』における、主に永夜市での男女の転換(らしきもの)の背景に、河合隼雄の指摘するような無意識への回帰(『とりかへばや物語』では夢)であったり、吉野の隠者という触媒的存在であったりが見受けられるかどうか、については、主人公の小鷹の少年時代にまつわる夢や回想ももちろんそうではありますが、私としては、

志熊理科の『とりかへばや物語』でいう「吉野の隠者」性


にも注目できるのではないか、という風に考えています。というのは、上記の幸村と夜空の男女転換に際して、

・ 幸村を男性的自我から女性的自我に転換させる説明を横縞ワンダーランドで行う
・ タイムマシンと称して好きな夢を見られる装置を作り、夜空がかつて小鷹の親友であり少年として見られていたことを再確認させる、あるいは周囲に知らせる
・ 夜空の服が「女の子らしく」「エロかわ」であると指摘する
・ 7巻で関係性そのものに影響することをぶっちゃける

といったような触媒的行為が志熊理科に集中しているからでありますが、じゃあその「場」がトポスとして機能している、つまりこの場合は横縞ワンダーランドや永夜といった土地と志熊理科の立ち位置に関係があるか、でいえば、今のところ指摘する材料はないように思われ、類似性は指摘できるものの「場」特有の力が働いているわけではないと考える。なんといっても5巻p142に志熊理科の科白として「モバイル取ってきます」とあるのが、「場」からの離脱をむしろ強く打ち出してて現代文学ですねえ、というところが現時点での私の理解です。

表面的事象として強いのは幸村の状態、対比されるのは夜空、夜空に関する事象は特に読み手にとっては主人公の小鷹の思い出により補強される、しかし状況を進めるのは理科、という捻れた落ち方になってしまいましたが。

なもんで、これからどうなるか、8巻以降楽しみですね、というところで今回は終わりたいと思います。

ってところで幸村と夜空の対比ったって、どっちが男として振舞ってもどっちも女性じゃん、あれ、これ宝塚?的な話も出てきますね。。。。
ということでまだまだ男の娘に関してうだうだ考え続けます。次回また。





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