男の娘試論(2):『放浪息子』の場合

 前回のエントリでは、理解するためのツールなりフレームワークなり価値観の体系として、サブカル評論的なのは向かないっぽいとか書きましたけども、じゃあどうすんの?となると、とりあえず、女装男子とか男装女子とかをカバーするトランスジェンダー文学の古典といえば『とりかへばや物語』だよね、構造的には『まりほり』と似てるし、河合隼雄の『とりかへばや、男と女』という分析もあるしぃ〜、ということで、この辺をとりあえず使ってみます。

『とりかへばや物語』で実は『僕は友達が少ない』を論じてみたかったのですが、『とりかへばや、男と女』を読んだところ、あーこれ『放浪息子』にピッタリじゃん、とか思ったのでまずは『放浪息子』について書いてみることにします。
# 『はがない』の『とりかへばや』っぽさはいずれ書きたいです
-----------------------
 『放浪息子』は2011年1-3月期に放送され、前半の頃は例えば、

『放浪息子』への嫌悪感の正体

がよくまとまっているかと思いますが、twitterなどで割とLGBT系コンテンツへの素直な拒否感が広く見られた中、このブログでは

まぁ要約すると「僕は女の子になりたいよ。こういう気持ちって誰にでもあるよね。そういう気持ちってどうすればいいか、この作品はリアルに考えていくよ」とでも要約できるでしょう。

そして、実は「ホモきめぇ」という風につぶやく人が本当に気持ち悪がっているのは、実はその「だれにでもある『異性になりたい』という気持ちをリアルに、しかも綺麗に考えていく」という部分なのです。類型的な「男の娘が女の子といちゃいちゃするアニメ」でないこと。ゲイのキャラクターがアニメ的にあからさまではなく、リアルに「さりげな」く、まるで「社会派アニメ」みたいなこと。そしてそれでいて、それを「清らかに」描いてしまうことが、僕も含め、どーにも腹が立って仕方ないのです。

と一歩踏み込んで書いています。
気持ち悪いかどうか、萌えアニメじゃないこと、などの是非はコメント欄含めてなかなか面白いのでお時間ある方はご一読頂きたく思います。

で、これを踏まえて言うならば、この作品のキモは「清らかに描く」点にあるように思われます。
清らかに描くといって、何を描いているのかというと、もちろん「だれにでもある『異性になりたい』という気持ち」ではありますが、それ自体は別に河合隼雄を持ち出さずともよいように思われるものの、その異性になりたい気持ちがどう思春期にあって変容しうるのかを、河合隼雄が『とりかへばや、男と女』で取り上げている男女のテーマに沿って忠実に描いているように見受けられました。

『とりかへばや、男と女』第4章の「内なる異性」では男性の中の女性性、女性の中の男性性を論じ、アニマ、アニムスの話(男性から見ると女性が、女性から見ると男性が内側に存在する)というユング派の説に沿った論を展開しています。

その上で、そもそもはたましいの元型が両性具有的、中性的に存在している、というような概念を紹介し、男性女性二元論が社会的文化的分類として極めて強いことを指摘した上で、
ある男性なり、女性なりが原理としては男性原理、女性原理、あるいはその双方を選ぶことができるわけである
として、人間としての男女と原理としての男女が不一致な場合について論じ、そうした場合、アニマ、アニムスが不安定・不明瞭であること、臨床的に日本人の自我は女性的性格が強く、そうしたアニマ、アニムスの発生が明確ではない場合があることなどを指摘しています。
# 日本人の自我が〜については次の次あたりに書きたいなあと予告してみる


これを以って『放浪息子』を見ていくと、

主人公の二鳥修一が、男性として、容姿の面(この場合は女装と男装)、思考の面(この場合は高槻よしのと末広安那とどちらと付き合うか)、の両方を描くことで、男性原理と女性原理との間を揺れ動き、最終的には男性原理を選び取って行く過程

が描かれています。
そのことで、結果的にはハッピーエンドになっているように描かれているわけですけども、そういう視点では極めてノーマルな物語であるように見ることができる作品と思われました。
  # 少なくとも末広安那ちゃん派としてはよかったねえと思うなどw


『放浪息子』の粗筋と主人公を『とりかへばや、男と女』的に見るとどうか的な視点で簡単に紹介すると上記のようなサッパリした話になるわけですが、それはそれとして、周辺の状況として描かれている中でも指摘すべきポイントを挙げると

 - 登場人物の年齢が第二次性徴が出てくる直前(容姿の面で男性と女性がまだギリギリ未分化たりうるタイミング)
 
 - 高槻よしの:対比する女性として、男性原理・女性原理の間を揺れ動く(修一ほど明確な結論を出さない)
 
 - 二鳥真穂:主人公の1歳上の姉。女性として女性原理を明確に選び取っている

 - 有賀誠:主人公ほどではないが男性原理・女性原理の間を動く
 
 - 更科千鶴:男装はするが男になりたいわけではない

などがあり、個々の登場人物を使ってそれぞれの選択肢や程度の可能性を描くことで、先の中性的な存在から男性・女性の確立に至る段階を丁寧に描いていると言えるように思います。

そうして見ていくと違和感を感じるというか、少なくともノーマルだよねと言って漫然と見ていてはいけなさそうな、注目すべき点、というか考察すべき点が出てくるように思います。
それは

- 主人公が男の娘的でありながら、結局は男の娘にならなかったこと

- 上記を踏まえると、河合隼雄的な視点で男性が女性原理を選ぶということと、男の娘には関係があるように思われること

- 修一が男性として男性原理を明確に選んだのに対し、高槻よしのはそこまで明確ではないこと

- 河合隼雄は日本人の自我は女性原理であると『昔話と日本人の心』で論じていること

- 男女いずれかを選び取る前の二鳥修一が好きだという千葉さおりの視線の意味と位置付け

といったような点で、最近様々な作品に男の娘が頻出してきていることに関係しているように思われてなりません。
というわけで続きます。


コメント
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック

selected entries

categories

archives

recent comment

recent trackback

links

profile

others

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM