文学少女と電子書籍

iPadの発売日でもあるし、ちょっと電子書籍のことなど。

『文学少女』、というラノベに惹かれたのは、もともと仕事上の流れで、同僚の角川担当者が角川のラノベを起点とするクロスメディア戦略においてどのくらい投入できるコンテンツに余裕があるかを『このライトノベルが凄い』からある程度予測していたのですが、その同僚から『このラノベ(ry』を何冊か借りたのがキッカケでして、古典文学を愛する文学少女の話が上位にランクされてることに驚いたところから始まりました。

で、しばらくして、去年だったか、アニメ化されるということで、いやこんな内容のが、などと再び驚いたわけですけど、去年も後半になってみると、電子書籍ネタでかなりメディア方面が騒然となっていて、
 # 私もハードウェアのチームや前述の角川担当の同僚と一緒にタブレットデバイスと電子新聞・電子書籍・教育に関するある意味で美しいレポートを上梓しました
 # ご興味のある方は、twitterなり何なりでご連絡下さい

そして気がつくと、この2010年は電子書籍元年だ、なんてことになってるんですかね。

そんな年に、古典文学を愛し、本を千切って食べる少女の話がアニメ化される(しかも映画というフォーマットで)という状況は、もちろん偶然ではあるのだろうけれど、やはり何がしか暗示するものがあるのだろう、という思いが拭えずにいます。
 # まあ、その意味では、今年アニメ化されたのが『文学少女』でなくて『図書館戦争』だったとしても、同じように何がしかの意味を見つけ出そうとはしていた気がします。
ところで、『図書館戦争』も年号が正化だったり、主人公の名が郁だったり、わかってるなあ、って感じですよね。


ということで、以下、『劇場版 文学少女』の若干のネタバレを交えた感想と牽強付会な戯言にお付き合い下さる方はご覧下さい。
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んじゃ、『文学少女』の映像化が電子書籍元年にあって何がしか意味を持つっていうなら、それなんなの、ちょっと中身を見てみましょうってことで・・・

『文学少女』の概要についてはwikipediaの記事を見て頂くとして、そこで描かれる世界はなかなか独特なものがあるように思います。

もちろん、「学園もの」「ハーレム状態」「色恋に鈍感な主人公」というラノベ的な"お約束"は素直に守られているものの、そこには、普通のご飯に味を感じずに本を千切って食む少女が出てくるくらいで、魔法も宇宙人も出てこない、割とありふれた日常の中での話の展開になっています。

じゃあ何が起きてどう話が進むの?ってことになると、物語を支配するパラダイムとしては本編中で多々参照される写実主義以降の(自然主義・反自然主義も含めた)西洋文学と日本近代文学のシステムが用いられていて、
 # 構造、とか書かないですよ〜。
 # あと、なんとか主義とかってひとくくりにすると文学研究者の皆さんに怒られますね〜。すみません(笑

8冊ある本編では繰り返し繰り返し、各々の巻の主要な登場人物の暗い過去と、主人公の作家の井上心葉とパラダイムに生きながらパラダイムを超越する少女たる天野遠子による「魂の救済」が描かれている、と。
文学少女見習いまで含めるとより明らかですが、変奏が再生産され続けます。

で、救済のツールが魔法やらなんやらではなく、写実主義以降の文学のパラダイムに則った「想像」「妄想」だという感じですかね。


これ、めっちゃ日常ですよね。
いやもちろんそんなに都合よく暗い過去を背負った人間ばかり登場することはないとは思いますけど。
空気としては、古典文学・古書の懐かしい饐えくささ、埃くささ、ノスタルジー、というところ、です。もちろんいい意味で。岩波文庫的。


となると、これを映像化する(しかも映画というフォーマットで)にあたり、何が映像化されるべきと考えられたのか、何を映像化しているのか、なんてことが気になりますけど、それが、うーーーーーーん、って感じなんですよね。

何のために、などと思って映画を観てみると、そこには原作にあって非常に重要な位置を占める竹田の絶望も、ななせの葛藤も、芥川の悔悟も、尺の関係もあって、ほとんど描かれていない感じですが、とはいえ、これがないと話にならないので、心葉の韜晦と美羽の喪失感は短い時間の中で上手く抽出されているようには思います。
特に中学校の校舎の上での雪景色。美羽の白いガウンの死装束っぷりは心葉の白いダッフルと相まって、束の間の同期を、そうすることの未来を暗示しつつ、マフラーが赤く、白いマフラーは遠子先輩に託している状況ってのが、感じ入ります。

でも、かといって、じゃあ、ラノベだアニメだといえば最近は「動物化」とか「データベース化」とか書けばそれっぽいんでしょうけど、そういうわかりやすい萌え化がなされているかというと、それはそれで峻拒されているというか、キャラデザの好き嫌いはともかくとしても、竹田はそれなりにロリキャラになってるとはいえ、ななせは別にツンデレ化されてるわけでもなく、美羽もヤンデレ化されてるわけでもなく、萌え商材としては期待しにくい印象も受けます。

余談ですがそういう意味では、二次創作の広がりと原作の比率を何がしか、例えば

     (ようつべ+ニコ動+Pixivのアップロード数+コミケ作品発表数)/(原作の部数なりBD+DVD販売本数なり金額なり)

とか一定の指標作って動物化指数なんて名付けるのはどうだろう、などと思ったりもしてますがwwww

となると、動物化指数は低めですね、この作品は


映像化されてて、ああこれは、と思ったのは、宮沢賢治の『敗れし少年の歌へる』の挿絵(これは映像であってこそ強烈)と遠子先輩の細やかな仕草の実に可愛らしく作り込まれているところで、魔法だなんだがない分、ひょっとして他の登場人物との差異を印象付けるために、作り込みに差をつけたかなという印象です。

ともかく、いずれ、映像化されたことで、原作の陰翳は希薄化されつつ、一方で萌え化(動物化)は目指されていない、となると、原作と映像の軽重の対比が浮き彫りにされたに過ぎない、という感覚は残ります。


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さて、これをどう考えるか。
もともと短編はエンターブレインのサイトで公開されたりしてて、角川グループ的に別に極端にメディアにこだわる方針ではないのは明白だ、という前提で。

8冊分でTVアニメ化にならなかったのは、幾ら『このラノベ(ry』で評価されてるとはいえ、もちろん、予算や収益期待(想定される視聴率なりBD/DVDのセールスなり)の兼ね合いがあるだろうことは容易に想像がつきますが(特に内容的に、ね)、古典近代的な西洋・日本文学を価値観の真ん中に置いた作品で、

・そもそも、食べる必然性
・関連して、手書き原稿や古い書籍に対する嗜好のギャップに言及する必然性
・映像化しながらも、萌え化・動物化・データベース化を拒絶する必然性、
・原作のキャラクター性を映像では表現しない必然性、

等々を思うに、要するに原作の方がいいじゃないかという印象を与えるわけですけど、映像化されず文章であるべきコンテンツがあり(だからこそ映像化されるにあたり古色蒼然たる映画化という方法なのかも)、さらに、電子書籍ではなく物理的に書籍であるべきコンテンツがある、というある種の信念を示しているように思います。

ストレートに書けば、古典文学は然るべき装丁を持った書籍に収められるべき、という信念があるかのような感じなのですが、それを敢えて映画化することでどういう形式を取るべきかを改めて表現している、というか、言い換えれば、

コンテンツにはそれに相応しいフォームファクタがある

ことを敢えて謳いあげているのではないか、などと思わずにはおれません。
KindleやiPadで青空文庫なりの独歩の『武蔵野』読んで、五穀米の握り飯の味わいを味わえるかこのやろう!的な。
 # 短編の一部がオンラインで公開されているというのに、あるいは書かれた時点で普通にディジタイズされている可能性も高そうなのに、ちょい矛盾した話をしてますけどね・・・

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というところでようやく電子書籍の話に入ります。

なので、最近はそれほどでもないけれど、書籍vs電子書籍で不倶戴天の敵、オールオアナッシング、的な皮相的な対立関係が煽られていたとして、そんな中、このタイミングで本を食べる少女が朗らかにForm Follows Functionに近しい思想を謳ってくれることに耳を傾けたいと思うのでした。

原作における天野遠子というキャラクターは、古典的エンターテインメントをバックグラウンドに持つ「知の番人」と君臨しており、そのことは、例えば『薔薇の名前』のホルヘであったり、漫画版ナウシカの庭の主のヒドラであったり、といった存在を想起させるものの、彼らとの決定的な違いは過去に固執しない点が異なる印象を強く与えてくれます。
 # 書籍に対する関わり方はGoogleBookSearch的ですらあると思えます

そのことは、デジタル化の道が拓かれつつも、紙媒体を選び取るにあたり、それが、古書屋の懐かしい、ひんやりした空気と饐えた匂いと共に思い出になっていく道を選んでいるのではなく、おそらく、電子書籍を積極的に肯定した上で、やはり紙に留まるであろうことを予感させます。
ビブリオフィリア、ビブリオマニアとは違った意味で、紙媒体たる意味を体現している、とでもいいましょうか。

また別の意味では、著作権が、とかアマゾンが、とか言う前に、本を愛せよと、コンテンツがどういう形で提供され消費者に訴求されるべきなのか考えよと、いう問いかけでもあろうかと思います。
出版業界は、4割返本で廃棄処分になっても、それでも電子化は拒否、というようなホルヘになってしまってはいけない、と。

だから、どうなるかわかりませんけど、京極夏彦の『死ねばいいのに』がああいうスタイルを取ってきたことに、一消費者に過ぎないとはいえ、とても嬉しいものを感じたのでした。
 # 京極夏彦は読まないんですけどね・・・

ということで、まさにこれから、文学少女の想いと業界はどう折り合いをつけていくのか、静かに見てまいりたいと思う次第でした。

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蛇足その1

いやひょっとすると、こういう作品がこういう映像化をされちゃうこと自体、紙媒体側の断末魔だよね的なこともいえるでしょうし、天野遠子はやはりホルヘみたいなもんで、彼女に仮託した文学コンテンツのデジタルからの訣別の宣言なのかも知れないですし、あるいは、「本を食べる」という行為は本に書き込む以上にビブリオマニア的には許しがたい感じがするわけで(文学少女を謳うなら尚更)、これ、biblioclasmとかlibricideとかに属する可能性があるという意味において、「古典文学はさっさと消化されて電子化されるべき」という風にとれなくもない、と思わなくもないですが・・・


蛇足その2

ところで、デジタルネイティブって、古本屋で黄ばんだ文庫本買って古典読んだりするんでしょうかね。

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